もともと私たちの真我には、喜びのエネルギーというものが内在しているのである。
しかし、人間はこの喜びのエネルギーを漏らすことで願望を叶えていく。そして、願望が叶うとで喜びのエネルギーが減る代わりに、苦しみのエネルギーが増大してくるのである。
もともと私たちの真我には、喜びのエネルギーというものが内在しているのである。
しかし、人間はこの喜びのエネルギーを漏らすことで願望を叶えていく。そして、願望が叶うとで喜びのエネルギーが減る代わりに、苦しみのエネルギーが増大してくるのである。
一切のカルマの制約を受けないということ。
一切の情報の影響を受けないため、確かに瞬間瞬間経験はしているが、この経験が根付かないことによって、一つ一つの行為や言葉や心の働きだけが存在し、過去の経験から色々な感情が動くということが無い。
つまり、真我の特性の絶対幸福とは不幸ではないという意味において幸福なのである。
真我の特性の絶対自由とは、非形状界、形状界、愛欲界の三つの世界に対して、自在に身体をつくり、現れることもでき、あるいは、そこから自在にまた元の世界へ帰ることができるということ。
カルパとは、宇宙の創造から、破壊、そして完全なる虚空までを表す。
一カルパ=宇宙が創造され、破壊され、虚空に至るまでの期間
そして、このカルパは、再生期、継続期、還元期、虚空期の四つに分けることができる。
聖無頓着とは、いかなるカルマの解放に対しても、一切頓着しない心のこと。
わたしたちは苦しいからそこから逃れたいと思い、逃れたいがために新しい悪業を積む。しかし、この聖無頓着の実践により、苦しみに頓着せず、ひたすら行為・言葉・心において善行をなしていたならば、悪業は必ず終焉を迎え、善の集積のみになる。
聖称賛とは、相手のいい要素を否定せず、心から称賛する心のこと。そうすることで、相手の持っている要素を自分自身も内在できるようになってくる。
称賛というものは、自分自身の心・知能・智慧を増大させる。
逆に、嫉妬心というのは、相手のいい要素をねたみ、そねむがゆえに、自分自身もその努力ができなくなってくる。それにより、対象に対する妨害の心が生起するだけでなく、自分自身の知能や智慧の阻害にもつながる。
そのため、聖称賛の心の実践はとても難しい。
聖哀れみとは、自分自身の不幸、苦しみについて悲しむのではなく、すべての魂の苦しみに対して悲しむ偉大な心のこと。
聖慈愛とは、全ての魂の成長を願う心。一つ一つの魂が本当に真理を知り、実践することにより、心、言葉、行為が浄化され高い世界へ至って欲しいと願う心のこと。
慈愛≠愛情
愛情とは、見返りを求める心が対象となる為、煩悩の一つである。
四無量心は、真理の実践者が煩悩を滅却した後に、実践しなければならない四つの偉大な心の実践。
この実践は、聖慈愛、聖哀れみ、聖称賛、聖無頓着の四つから形成されている。